2008年10月7日 星期二

春の鳥-解説

春の鳥-解説

B93101028 張溫馨
B94101017 童詩媁

評価
「詩的な、美しい作である。(中略)城址の白痴児、(中略)哀れな母と無心の鳥とを対照に出し、(中略)温かく人を引き付ける処は全く無韻の詩と言はうか」
中島健蔵「批判を絶する傑作」
長谷川泉「完璧に近いエレジー」

歴史的な社会背景
「春の鳥」はかつて(一九六七年まで)文部省検定済の教科書『高等学校現代国語二』に採録されていたが、今日では姿を消している。理由は「白痴」などの文言は差別の意味があると見られ、クレームがつけられたからである。しかし「春の鳥」が作成された当時、障害児教育は全く観られなかったので、むしろ独歩のこの見識は賞賛すべきであろう。また、その時代では、「白痴」という用法は必ずしも差別用語ではなく、重度の知的障害者を称する一般用語であったので、差別用語とを混同せずに見極めることが大切である。「禽獣に類している」などの文書もそれなりに意味が含まれているので、そこを踏まえて読まなければならないのである。

虚構と事実
この「春の鳥」の主人公は実在人物で、山中泰雄という子供の話である。
独歩は「予が作品と事実」(『趣味』明40.10)に「この一編の主人公、白痴の少年は予が豊後佐伯町に在りし時親しく接近した実在人物で、この少年の身の上の話は皆な事実である。しかしてこの少年が城山で悲惨なままを遂げた事は予の想である。」と告白している。つまり、実在した主人公は子供のごろにすでに死んだのは虚構である。それに、実在のモデルは「ただうろうろと庭の内、家の前などうろつき居る」「遅鈍」な少年であるが、物語では「猿のように石垣を登り」など野生児のイメージを付与して形象されるのである
 ほかにも、事実では主人公の母親と姉は普通の人で、父親も大酒家ではないということである。
 これらの虚構はそれなりに意味を持っているので、のちには紹介する。

リアリスト兼ロマンチスト-語り手の「私」
物語の冒頭では、語り手の私が自分は英語と数学を教えていると言っているが、実際に独歩もこの二つの科目を担当していた。したがって、ここには一つ見逃しやすいところがある。それは英語と数学の意味である。伝統的な漢文学に対して、英語や数学は西洋から伝来してきた、近代的に合理的実証精神を表す重要なポイントである。すなわち、ここの語り手は近代的、リアリストの一面を持つ人である。
しかしながらも、この私が草を敷いて身を横たえ、自然のことを楽しみ、いつも城山の頂上に登り、そこで景色を見ながら、本を読んでいるのである。これは語り手の自然への愛情を表すのである。つまり、語り手の内面にはリアリストでありながらもロマンチストの一面があるのである。
この「春の鳥」を読み終わったら、皆さんが一番注目したところは何だろう。私の場合はこの語り手の段階的に変化してゆく心理である。これをこの二つの主義に当てはまるとこの文章はより分かりやすくなるかもしれないと思う。また、<私>は語り手である上に、「現実世界を生きる常識的普通人」である。
まず、第一章では、二重性を持つ語り手が主人公に出会うところが描かれている。そこで、<私>はこの人を「唯の子供でないと」見ていた。これは子供が白痴を暗示し、六蔵の基本的なイメージも強く印象付けているが、<私>は常識的な人であるから、こういうふうに見たのだ。
第二章になると、田口の主人に頼まれたから、<私>は家族からの心情や価値観の側に立って判断するようになった。後半六蔵とおしげを見てから思ったことはリアルに描写されるのである。
しかし、第三章では、<私>は最初いろいろな方法を試して、六蔵に教えようとしていたのだが、城山では、違う目線で六蔵を見るようになった。城山その場所は<私>と六蔵の共通世界である。<私>の自然を楽しむ部分、と六蔵の鳥に対する興味とがともに満ちた共通の場所である。したがって、<私>は六蔵の固有世界を発見した。また六蔵への知育を断念し、より自由な眼で六蔵を見るようになり、<私>の内では、六蔵への愛情もまた純化され、六蔵のイメージも少年から天使にまで昇華されるのである。(私の想像する伏線)
第四章の最後の部分、<私>ははじめは空を飛ぶ鳥を六蔵のことを見なしたが、これがそのロマンチストな部分である。しかし<私>の内なるリアリストが「よし六蔵でないにせよ」とその想像を否定し、六蔵は鳥と違うという現実の次元へ引き戻しているのである。また、母親に「何故鳥のまねなんぞしたのでございましょう」と聞かれたとき、あえて「想像」を強調したのも、リアリストを主張するのである。つまり「人類と他の動物との相違、人類と自然との関係、生命と死」などの概念である。このリアリストによって、この作品が現実を離脱した幻想小説になることを食い止めているのである。
 上述したことからは独歩の浪漫主義の本質は「幻想的ロマンチシズム」ではなく、近代精神との葛藤を経て、近代主知主義との微妙な均衡の上に立つものであることが分かる。(主知主義:intellectualism、人間の心は知、情、意からなるなどといわれるが、このうち知性などと呼ばれる知的機能が最も重視されるのは主知主義である)

自然児としての六蔵のイメージ
主人公と語り手との劇的出会いその描写から見ると、ここは自然児として彼の基本的なイメージが強く印象づけられる。第一章はこのイメージが鮮やかに輪郭づけている。石垣を「猿のように登り」「鳥を見て夢中で追う彼の生気に満ちた姿」などの句からはこの子は自然にとても慣れていると読み取れる。この基本的なイメージは後にも反復強調され、あるいは様々な違ったイメージが付加され、その基本的イメージをより強化する。
しかし、この後、名前や年齢などと聞かれると、「怪しい笑いを洩らし」「怪訝な顔をしている」のは単なる白痴であることを示すだけでなく、これは後ほど説明いたす。その後、学校に行かない理由と聞かれても「頭をかしげて向こうを見ていた」、その後「烏々」と叫んで駆けていった。これはどういう意味を代表しているのだろうか。

六蔵の固有世界と現実対応への対照
第二章では、<私>は下宿するところで六蔵と再会したが、六蔵は声をかけられても、笑ったまま、言葉は出さない。これは家事を強いられるので、六蔵は生気を失ったからである。家事というのは社会への対応一環で、六蔵にとっては自分の世界ではない。したがって、このようなことを強いられると、六蔵は生気を失う。
また、振り返り見ると名前は記号として、年齢は数の観念としてみると、この二つは現実適応への第一条件だから、自分の生きる固有の世界とは相容れないので、六蔵は無関心である。したがって、その後語り手が描写した、好きな鳥の名さえ憶えていないという理由もこれであろう。
もう一つの生気を失った理由は六蔵は教育を強いられていたからである。それにその要求を答えた<私>の教育は最もたるものである。だから、いくら教育しても、六蔵には何の成果も見えなかった。これは六蔵の生きる固有の世界を無視し、<私>の立つ現実世界の価値観を押し付けていたからである。しかし、これは<私>の本意ではなく、その伯父や母親の依頼からなのである。

ほかの人物の代表する意味
母親:語り手が語りえぬところを補完する重要な役割
 語り手は常識的普通人なので、全般的に六蔵のことを述べるには困難がある。だが、母親は「白痴に近い」ので、六蔵の神話的世界に通じながらも、普通人である<私>とは通じ合えるのである。
 読者は一方同じ位置に立つ<私>と通じ、他方では別空間の世界へ羽ばたいた六蔵へ通じているこの母親を介して、六蔵に迫ることができる。
 まう一つは母親自身の姿である。愛児の生前の物まねを反芻する母親の姿は共通普遍の追慕の情の極度に純化した身体的表現である。六蔵の将来を案じる母親の真情、あるいは愛児を失った後の悲しみの極限の表現である独語。実は、一般の母親とは違ったところはないのである。
 終結部ではまず世の常の母親と変わらぬ母親像が映し出された後、<私>が語りえぬ事を母親の言動で補完していく。
姉のおしげ:白痴性と少年性との対照する役割
 おしげも六蔵と同様、白痴であるが、第二章の出場は、六蔵と対照的、重要な役割を果たしているのである。この部分では、六蔵とおしげは白痴性だけが語られている。姉のほうはもう既に少年(少女)ではないから、白痴性のみを露呈するのである。しかし、これによって六蔵の少年性は浮上した。
田口の主人:社会の価値観に代表する役割
 まず、第一章ではこの子は「農家の子でも町家の者でもなさそうでした」と書いてあるが、これは実に田口家の身分は特殊であると暗に示しているのである。その後第二章では、田口家は昔は家老職であったことが分かった。この二つのことは強いて六蔵を現実世界に適応させることとは関係がある。
 また母親は夫を死なれて、母子で兄のもとに寄食するのであるから、六蔵の自然性を考え、そのまま自由に生きさせるのは無理である。だから、「兄の手前を兼ねて六蔵を折々痛く叱る」。
 そして、六蔵は退学させられたことは伯父や母親の本意ではなかったので、<私>に教育を求めたのである。これもまた六蔵の自然性を抑制したのである。

自然児と少年性、六蔵昇天の伏線
伏線:語り手の私が始めて主人公に会ったのは城山の石垣の下で、そこが最後語り手が主人公の死を見届ける場所である。
<私>が主人公を呼びかけた後、六蔵は慣れているようにものすごいスピードでここへ登ってきたのはのちに少年の悲劇と結びついている。
「飛ぶ」「天使」の伏線
<私>の想像する伏線:第三章では、<私>が六蔵のことを深く分かるようになり、私の目には六蔵はどうにも白痴には見えず、天使だと思った。そして、「この児童には…余程不思議らしく思われました」というのは六蔵の死因を「空を自由に飛ぶ鳥と結び付けて解釈する<私>の想像する伏線である。第四章では、<私>の予感どおり、六蔵の死骸が城山で発見された。彼が目を遠く放って歌を歌っていたあの石垣の角の真下だから、<私>の想像には説得力があり、読者にも納得できる。
この「春の鳥」では六蔵に少年性を意味づけ、少年は自然の児として固有の価値的世界を有し、野生(自然)そのまま自由に生きているという命題に基づいている。
少年は大人の現実の抑圧.疎外状況に拘束されず、少年それ自体の、固有の価値的世界を自由に生きている。六蔵は白痴であるゆえに社会に適応できず、現実から疎外されるのだが、少年であるからこそ自然の児として自由に生きることができる。
また、六蔵が大人になったら、その少年性は失い、社会に適応できず、自由意志で生きられないので、少年のままで昇天したのである。

ワーズワスの「童なりけり」との比較
「童なりけり」よりも六蔵のことはさらに意味あるように私は感じる:
「童なりけり」の主人公は普通の少年であるが、六蔵は白痴で、その生涯を思い、その白痴を思うとき、白痴ながらも少年はやはり自然の児であったから、さらに意味あると感じたのである。
そして、六蔵の死因は自分の自然へ対する憧憬で、自足感を得ようとすれば、やはり鳥のように飛んでみる他ならないのだろう。つまり、六蔵は自らの憧れる世界へ羽ばたく行為の主体となって昇天したのだから、さらに意味ありと言えよう。

少年時代の回想と少年時代の喪失
「春の鳥」は自然と交流し、自然の同化者であった独歩自身の性質を六蔵に付与し、仮託投影して小説化したものとも言えよう。年少時代の回想によって今の壮年時代を見ようとしながらも、少年性喪失の悲哀が漂う。少年性の喪失はまた自然喪失をも伴う。少年時代そのものはもはや行って帰らぬ世界であるから、少年性の象徴たる自然児を観察し、<私>が観察者にほかならない。



参考資料:北野昭彦『宮崎湖処子.国木田独歩の詩と小説』
     第十一章-国木田独歩「春の鳥」と「画の悲しみ」

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