2008年10月12日 星期日

僕人The Servant

  雖是本領導相關書籍,但內容對個人成長也很受用的!快速瀏覽過,僅述幾個重點:

>愛是行動,不是感覺。從家做起!
>傾聽也可以達到紓壓的效果 做個好傾聽者
>寬恕--給對方應有的尊重。過去的事就讓它過去。
>遲到--表示自己的時間比對方重要 不尊重對方 > <
>說謊--不欺瞞。善意的謊言仍帶有"欺騙"的涵義在
>選擇--任何事情都由自己選擇。人生只有"死亡"&"選擇"是不能選的
(遺傳固然無法避免 但生活方式是自己選擇的)

白色長頸鹿The white giraffe

  這是一本童書,文字簡單,但意義深遠。
*要放你愛的東西自由
若牠屬於你 牠就會回到你身邊
若牠沒有回來 表示牠永遠不屬於你*

對於自己與生俱來的天賦,善加利用,是福是禍都取決於自己。
逃避永遠無法解決問題,並有釀成大禍的可能性!

Follow my instinct and find the true strength of myself.
Friend in need is a friend indeed!
Life is chosen by myself, face the problem and myself.

自分が愛しているものを自由にさせて、
帰ってくれるかどうかはそのもの自身に任せればいい。

問題を直面するときには、逃げるのが臆病な子。ちゃんと解決策を考えなければならない。
自分が選んだ生活は私が責任を負う。

2008年10月11日 星期六

10/6-10/9

謝謝書蓉借我國關筆記^^
近代文學史報告結束,算是鬆了一口氣囉~感謝溫馨學姊的努力!
國關第一次報告在前輩協助下如期完成,謝謝你囉!鄭さん~

雖然我覺得台科大的大阪燒很便宜又青菜豐富,礙於經濟不景氣,竟然歇業了...真可惜,和朋友一起吃泡芙發洩一下!素食和台大一樣就是了~不過李媽媽麵店的有些價格好像比較便宜喔~

10/10 National Holiday

  今天很開心喔~~和舒婷\(^^)/一起去八里做渡船,逛淡水老街,吃的超飽的
雖然本來預計要去台中玩,請Brady當地陪,無奈八點到北車時已是萬頭鑽動...當下只好割愛,改在台北玩嚕~又深的高手呢!

  去逛了校園書店,有幾本書真是不錯,感覺也挺舒服的,舒婷唱"野地的花"很好聽喔~午餐去易牙居點心坊,首次品嚐,恩,味道還不錯^^不過那天生意很好,沒預約就沒位子坐了。吃飽了去茉莉看書,本來想難得放假不想看書的,但是一走進去,映入眼簾的是朋友推薦的"僕人",於是便啃了起來,沒時間做筆記,不過書中有些關於領導的觀念對我來說是全然陌生但又非常受用的,雖然在TM有學到最好的領導者便是最好的服務者,但我覺得全篇重點可以用一首歌"愛的真諦"代表中心思想。

愛的真諦

愛是恆久忍耐,又有恩慈;愛是不嫉妒;
愛是不自誇不張狂,不做害羞的事,
不求自己的益處,不輕易發怒,
不計算人家的惡,不喜歡不義只喜歡真理;
凡事包容,凡事相信,凡事盼望,
凡事忍耐凡事忍耐,愛是永不止息。

  接著壓,前往關渡,本來想騎腳踏車沿淡水河繞一圈,但突然下起傾盆大雨,只好坐渡船囉~蚵蛋包蠻好吃的>///< 到了淡水,就吃吃走走,土耳其冰淇淋超有趣的,老闆樂在其中,還藉由冰淇淋黏度高的特性跟顧客玩起了遊戲~接下來還逛了飾品店,買了個髮箍跟手環,吃了香草紅豆燒冰...覺得焦味怪怪的,其實本來想吃的沒有就應該先行離開的...果然老天都自有安排壓!珍珠包也蠻好吃的,有點小小遺憾是沒有吃好吃的花枝...因為太貴了>< 試吃的黑糖糕也挺不錯,只是沒錢了沒辦法買~最後離開前吃的是雞蛋糕,可愛的玩偶都進了我五臟廟啦~帶回家的是一盒跟老太太買的涼糕+基諾的五穀麥粉+溫泉蛋,今天總開銷逾仟元哩!話說腳雖酸,心裡超開心的啦^^今天可以說是一場身 心 靈 饗宴呢!

2008年10月7日 星期二

春の鳥-解説

春の鳥-解説

B93101028 張溫馨
B94101017 童詩媁

評価
「詩的な、美しい作である。(中略)城址の白痴児、(中略)哀れな母と無心の鳥とを対照に出し、(中略)温かく人を引き付ける処は全く無韻の詩と言はうか」
中島健蔵「批判を絶する傑作」
長谷川泉「完璧に近いエレジー」

歴史的な社会背景
「春の鳥」はかつて(一九六七年まで)文部省検定済の教科書『高等学校現代国語二』に採録されていたが、今日では姿を消している。理由は「白痴」などの文言は差別の意味があると見られ、クレームがつけられたからである。しかし「春の鳥」が作成された当時、障害児教育は全く観られなかったので、むしろ独歩のこの見識は賞賛すべきであろう。また、その時代では、「白痴」という用法は必ずしも差別用語ではなく、重度の知的障害者を称する一般用語であったので、差別用語とを混同せずに見極めることが大切である。「禽獣に類している」などの文書もそれなりに意味が含まれているので、そこを踏まえて読まなければならないのである。

虚構と事実
この「春の鳥」の主人公は実在人物で、山中泰雄という子供の話である。
独歩は「予が作品と事実」(『趣味』明40.10)に「この一編の主人公、白痴の少年は予が豊後佐伯町に在りし時親しく接近した実在人物で、この少年の身の上の話は皆な事実である。しかしてこの少年が城山で悲惨なままを遂げた事は予の想である。」と告白している。つまり、実在した主人公は子供のごろにすでに死んだのは虚構である。それに、実在のモデルは「ただうろうろと庭の内、家の前などうろつき居る」「遅鈍」な少年であるが、物語では「猿のように石垣を登り」など野生児のイメージを付与して形象されるのである
 ほかにも、事実では主人公の母親と姉は普通の人で、父親も大酒家ではないということである。
 これらの虚構はそれなりに意味を持っているので、のちには紹介する。

リアリスト兼ロマンチスト-語り手の「私」
物語の冒頭では、語り手の私が自分は英語と数学を教えていると言っているが、実際に独歩もこの二つの科目を担当していた。したがって、ここには一つ見逃しやすいところがある。それは英語と数学の意味である。伝統的な漢文学に対して、英語や数学は西洋から伝来してきた、近代的に合理的実証精神を表す重要なポイントである。すなわち、ここの語り手は近代的、リアリストの一面を持つ人である。
しかしながらも、この私が草を敷いて身を横たえ、自然のことを楽しみ、いつも城山の頂上に登り、そこで景色を見ながら、本を読んでいるのである。これは語り手の自然への愛情を表すのである。つまり、語り手の内面にはリアリストでありながらもロマンチストの一面があるのである。
この「春の鳥」を読み終わったら、皆さんが一番注目したところは何だろう。私の場合はこの語り手の段階的に変化してゆく心理である。これをこの二つの主義に当てはまるとこの文章はより分かりやすくなるかもしれないと思う。また、<私>は語り手である上に、「現実世界を生きる常識的普通人」である。
まず、第一章では、二重性を持つ語り手が主人公に出会うところが描かれている。そこで、<私>はこの人を「唯の子供でないと」見ていた。これは子供が白痴を暗示し、六蔵の基本的なイメージも強く印象付けているが、<私>は常識的な人であるから、こういうふうに見たのだ。
第二章になると、田口の主人に頼まれたから、<私>は家族からの心情や価値観の側に立って判断するようになった。後半六蔵とおしげを見てから思ったことはリアルに描写されるのである。
しかし、第三章では、<私>は最初いろいろな方法を試して、六蔵に教えようとしていたのだが、城山では、違う目線で六蔵を見るようになった。城山その場所は<私>と六蔵の共通世界である。<私>の自然を楽しむ部分、と六蔵の鳥に対する興味とがともに満ちた共通の場所である。したがって、<私>は六蔵の固有世界を発見した。また六蔵への知育を断念し、より自由な眼で六蔵を見るようになり、<私>の内では、六蔵への愛情もまた純化され、六蔵のイメージも少年から天使にまで昇華されるのである。(私の想像する伏線)
第四章の最後の部分、<私>ははじめは空を飛ぶ鳥を六蔵のことを見なしたが、これがそのロマンチストな部分である。しかし<私>の内なるリアリストが「よし六蔵でないにせよ」とその想像を否定し、六蔵は鳥と違うという現実の次元へ引き戻しているのである。また、母親に「何故鳥のまねなんぞしたのでございましょう」と聞かれたとき、あえて「想像」を強調したのも、リアリストを主張するのである。つまり「人類と他の動物との相違、人類と自然との関係、生命と死」などの概念である。このリアリストによって、この作品が現実を離脱した幻想小説になることを食い止めているのである。
 上述したことからは独歩の浪漫主義の本質は「幻想的ロマンチシズム」ではなく、近代精神との葛藤を経て、近代主知主義との微妙な均衡の上に立つものであることが分かる。(主知主義:intellectualism、人間の心は知、情、意からなるなどといわれるが、このうち知性などと呼ばれる知的機能が最も重視されるのは主知主義である)

自然児としての六蔵のイメージ
主人公と語り手との劇的出会いその描写から見ると、ここは自然児として彼の基本的なイメージが強く印象づけられる。第一章はこのイメージが鮮やかに輪郭づけている。石垣を「猿のように登り」「鳥を見て夢中で追う彼の生気に満ちた姿」などの句からはこの子は自然にとても慣れていると読み取れる。この基本的なイメージは後にも反復強調され、あるいは様々な違ったイメージが付加され、その基本的イメージをより強化する。
しかし、この後、名前や年齢などと聞かれると、「怪しい笑いを洩らし」「怪訝な顔をしている」のは単なる白痴であることを示すだけでなく、これは後ほど説明いたす。その後、学校に行かない理由と聞かれても「頭をかしげて向こうを見ていた」、その後「烏々」と叫んで駆けていった。これはどういう意味を代表しているのだろうか。

六蔵の固有世界と現実対応への対照
第二章では、<私>は下宿するところで六蔵と再会したが、六蔵は声をかけられても、笑ったまま、言葉は出さない。これは家事を強いられるので、六蔵は生気を失ったからである。家事というのは社会への対応一環で、六蔵にとっては自分の世界ではない。したがって、このようなことを強いられると、六蔵は生気を失う。
また、振り返り見ると名前は記号として、年齢は数の観念としてみると、この二つは現実適応への第一条件だから、自分の生きる固有の世界とは相容れないので、六蔵は無関心である。したがって、その後語り手が描写した、好きな鳥の名さえ憶えていないという理由もこれであろう。
もう一つの生気を失った理由は六蔵は教育を強いられていたからである。それにその要求を答えた<私>の教育は最もたるものである。だから、いくら教育しても、六蔵には何の成果も見えなかった。これは六蔵の生きる固有の世界を無視し、<私>の立つ現実世界の価値観を押し付けていたからである。しかし、これは<私>の本意ではなく、その伯父や母親の依頼からなのである。

ほかの人物の代表する意味
母親:語り手が語りえぬところを補完する重要な役割
 語り手は常識的普通人なので、全般的に六蔵のことを述べるには困難がある。だが、母親は「白痴に近い」ので、六蔵の神話的世界に通じながらも、普通人である<私>とは通じ合えるのである。
 読者は一方同じ位置に立つ<私>と通じ、他方では別空間の世界へ羽ばたいた六蔵へ通じているこの母親を介して、六蔵に迫ることができる。
 まう一つは母親自身の姿である。愛児の生前の物まねを反芻する母親の姿は共通普遍の追慕の情の極度に純化した身体的表現である。六蔵の将来を案じる母親の真情、あるいは愛児を失った後の悲しみの極限の表現である独語。実は、一般の母親とは違ったところはないのである。
 終結部ではまず世の常の母親と変わらぬ母親像が映し出された後、<私>が語りえぬ事を母親の言動で補完していく。
姉のおしげ:白痴性と少年性との対照する役割
 おしげも六蔵と同様、白痴であるが、第二章の出場は、六蔵と対照的、重要な役割を果たしているのである。この部分では、六蔵とおしげは白痴性だけが語られている。姉のほうはもう既に少年(少女)ではないから、白痴性のみを露呈するのである。しかし、これによって六蔵の少年性は浮上した。
田口の主人:社会の価値観に代表する役割
 まず、第一章ではこの子は「農家の子でも町家の者でもなさそうでした」と書いてあるが、これは実に田口家の身分は特殊であると暗に示しているのである。その後第二章では、田口家は昔は家老職であったことが分かった。この二つのことは強いて六蔵を現実世界に適応させることとは関係がある。
 また母親は夫を死なれて、母子で兄のもとに寄食するのであるから、六蔵の自然性を考え、そのまま自由に生きさせるのは無理である。だから、「兄の手前を兼ねて六蔵を折々痛く叱る」。
 そして、六蔵は退学させられたことは伯父や母親の本意ではなかったので、<私>に教育を求めたのである。これもまた六蔵の自然性を抑制したのである。

自然児と少年性、六蔵昇天の伏線
伏線:語り手の私が始めて主人公に会ったのは城山の石垣の下で、そこが最後語り手が主人公の死を見届ける場所である。
<私>が主人公を呼びかけた後、六蔵は慣れているようにものすごいスピードでここへ登ってきたのはのちに少年の悲劇と結びついている。
「飛ぶ」「天使」の伏線
<私>の想像する伏線:第三章では、<私>が六蔵のことを深く分かるようになり、私の目には六蔵はどうにも白痴には見えず、天使だと思った。そして、「この児童には…余程不思議らしく思われました」というのは六蔵の死因を「空を自由に飛ぶ鳥と結び付けて解釈する<私>の想像する伏線である。第四章では、<私>の予感どおり、六蔵の死骸が城山で発見された。彼が目を遠く放って歌を歌っていたあの石垣の角の真下だから、<私>の想像には説得力があり、読者にも納得できる。
この「春の鳥」では六蔵に少年性を意味づけ、少年は自然の児として固有の価値的世界を有し、野生(自然)そのまま自由に生きているという命題に基づいている。
少年は大人の現実の抑圧.疎外状況に拘束されず、少年それ自体の、固有の価値的世界を自由に生きている。六蔵は白痴であるゆえに社会に適応できず、現実から疎外されるのだが、少年であるからこそ自然の児として自由に生きることができる。
また、六蔵が大人になったら、その少年性は失い、社会に適応できず、自由意志で生きられないので、少年のままで昇天したのである。

ワーズワスの「童なりけり」との比較
「童なりけり」よりも六蔵のことはさらに意味あるように私は感じる:
「童なりけり」の主人公は普通の少年であるが、六蔵は白痴で、その生涯を思い、その白痴を思うとき、白痴ながらも少年はやはり自然の児であったから、さらに意味あると感じたのである。
そして、六蔵の死因は自分の自然へ対する憧憬で、自足感を得ようとすれば、やはり鳥のように飛んでみる他ならないのだろう。つまり、六蔵は自らの憧れる世界へ羽ばたく行為の主体となって昇天したのだから、さらに意味ありと言えよう。

少年時代の回想と少年時代の喪失
「春の鳥」は自然と交流し、自然の同化者であった独歩自身の性質を六蔵に付与し、仮託投影して小説化したものとも言えよう。年少時代の回想によって今の壮年時代を見ようとしながらも、少年性喪失の悲哀が漂う。少年性の喪失はまた自然喪失をも伴う。少年時代そのものはもはや行って帰らぬ世界であるから、少年性の象徴たる自然児を観察し、<私>が観察者にほかならない。



参考資料:北野昭彦『宮崎湖処子.国木田独歩の詩と小説』
     第十一章-国木田独歩「春の鳥」と「画の悲しみ」